理事長雑感⑧  「美は可食なり」 田村一二さんの思い出 

前回は池田太郎先生についてご紹介しましたが、今回は池田先生と共に近江学園を立ち上げた仲間である田村一二先生(以下、敬称略)についてお話ししたいと思います。近年は田村の名前を目にする機会も少なくなりましたが、糸賀一雄・池田太郎とともに、戦後の障害児教育と福祉の基盤をつくった重要な人物です。

田村は、戦前に京都の小学校で知的障害のある子どもたちと出会い、その実践を『手をつなぐ子等』『忘れられた子等』といった著書にまとめました。これらの本は戦後に広く読まれ、映画にもなっています。私も大学生の時、神田の古本屋で田村の書籍をまとめ買いして、今も大切にしています。

戦後の知的障害児教育は、反復練習によって社会的な適応をめざす方法が主流でした。しかし田村は、教師が一方的に教えるのではなく、作業を通して子どもと一緒に働きながら学ぶことを大切にしました。田村がよく使った「同労甘苦」という言葉には、子どもと共に喜びも苦労も味わいながら育ちを支える姿勢が込められていると思います。

ところで、学生時代、田村の講演会に参加したことがあり、懇親会で結婚のきっかけについてお聞きする場面がありました。田村は照れながらも、「職員室で向かいの席だった妻の机に一輪の花があって、思わず『美は可食なり』と言って食べてしまったんです。それが縁で…」と語ってくれたことを覚えています。その飾らない温かさに、田村らしいお人柄が表れていました。

子どもを見る眼差しはとても優しく、同時にその中にある力を引き出そうとする厳しさも持ち合わせていました。「一万円のニセ札より、一円の真貨を」という言葉には、見た目ではなく“その子らしさ”を大切にする思いが込められています。また「ぜんざいには塩がいる」という印象的なたとえも、障害のある子どもたちの存在の価値を伝えるものでした。

糸賀・池田・田村の三人が障害のある子どもたちのために奔走した時代から、教育・福祉の制度や環境は大きく進展しました。しかし、彼らが遺してくれた「福祉の思想」や「教育理念」は、今を生きる私たちがこれからも大切に受け継いでいくべきものだと感じています。

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