理事長雑感③ 今日は石井亮一の命日・・・滝乃川学園の財政状況

 今から88年前の今日、石井亮一は69歳で亡くなりました。石井亮一は、日本の「知的障害児教育(白痴教育)の父」ともいうべき人物です。1891年に起こった濃尾大地震の後に親を失った女児たちが女衒によって女郎として売られている状況を基督教週報で知った亮一(当時、立教女学校教頭、24歳)は、孤児を救済するために同志と共に震災地に向かいました。そして20名余の孤児を連れ帰り、孤女学園を日本で最初の女医である荻野吟子の医院の一部を間借りして開設します。その孤女の中に知的障害の女の子がいました。名を太田とく代といいます。とく代に保母が読み書きを教えようとしても一向に学習が進みません。保母に代って亮一が教育に当たりますが、うまくいきません。とく代が白痴と言われる存在であることを認識した亮一は、白痴教育に強く関心を抱きました。そしてアメリカに2度も渡っていき白痴教育の研究をしました(渡米中、若き日のヘレン・ケラーとも面会をしています)。1896年に帰国した後、白痴施設である「滝乃川学園」を創設した次第です。

 さて、当時の社会事業施設は、その多くが篤志家により運営されており、公的な援助はない状態でした。滝乃川学園も同様であり、財政的に経営は非常に困難でした。私は、初期の滝乃川学園の財政状況について調べたことがあるのですが、初期の学園の財政的基盤は、アメリカ聖公会からの寄付金に大きく依拠していました。英国の精神薄弱者保護統制王室委員会の報告書(1908)には、滝乃川学園について「アメリカ聖公会と密接な関係のあるこの施設では、日本及び国外からの寄付金によって援助されている。(略)自国の事業というよりもむしろ、外国の慈善による事業であるといえよう」と書かれているくらいです。アメリカの寄付金に頼ったのは、林歌子の博愛社も津田梅子の女子英学塾(のちの津田塾大学)も同様でした。そして滝乃川学園は大正期になり、財政的な立て直しのため財団法人化され、皆さんご存じの渋沢栄一が理事長となります。

 昔も今も、組織運営の大きな基盤は言うまでもなく、財政です。育成会(手をつなぐ親の会)は、設立当初は特殊学級設置運動を中心に進めましたが、やがて各地区で保護者たちがお金を集めて小規模作業所を設置する運動へと移りました。私たちの宇都宮育成会の前身である「すぎの芽教室」もそうです。時代は移り変わり、現代では障害者福祉制度は社会保障の一環となり、また一般の寄付文化も広がってきました。本育成会も、社会的に認知され、今後も持続的に活動を進めていくには、寄附を広く集めて、近い将来に認定非営利活動法人になっていくことが必要だと考えます。

 (2025.6.14 記)

\ 最新情報をチェック /